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沖縄本土復帰 沖縄県糸満市摩文仁の丘の国立沖縄戦没者墓苑
沖縄本土復帰 沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の丘の国立沖縄戦没者墓苑。(本社機から1972年5月撮影)21日朝刊掲載
日付:1972年5月21日
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RM 13340276
沖縄本土復帰 米軍嘉手納基地と嘉手納村
沖縄本土復帰 米軍嘉手納基地と嘉手納村。(本社機から1972年5月撮影)21日朝刊掲載
日付:1972年5月21日
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RM 13340233
沖縄が本土復帰した際、センター通りに掲げられた横断幕 1972年
沖縄が本土復帰した際、沖縄市(旧コザ市)のセンター通りに掲げられた「祖国復帰おめでとう」の横断幕。1972年5月16日撮影。 沖縄返還は1969年11月の日米首脳会談で合意された。引き換えに日本は、米国の極東戦略への協力を約した。2012年7月7日[昭和時代]戦後転換期(14)沖縄返還=下 密約・密使のツケ重く(連載)掲載。
日付:1972年5月16日
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RM 13340251
沖縄本土復帰 琉球銀行前で円交換に並ぶ那覇市民
沖縄本土復帰 琉球銀行前で円交換に並ぶ那覇市民。(1972年5月16日)
日付:1972年5月16日
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沖縄本土復帰 琉球銀行で円を見るお年寄り
沖縄本土復帰 琉球銀行で円を見るお年寄り。(那覇市で1972年5月16日)
日付:1972年5月16日
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RM 9358572
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 デモ隊に引き裂かれた「祝 沖縄県」の横断幕, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 復帰を祝う民家の日の丸掲揚はほとんど無いが、本土の観光客相手の国際通りの商店街では日の丸のオンパレード。国際通りでは、デモ隊が「沖縄県」のプラカードや日の丸を次々になぎ倒し、横断幕を旗ざおで引き裂いた=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 7頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 13145087
日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典で参列者と万歳される両陛下 1972年
日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典で参列者と万歳される両陛下。1972年5月15日夕刊「沖縄県づくり始まる 那覇、東京で復帰記念式典 試練越え全力…屋良知事」掲載。
日付:1972年5月15日
人物:昭和天皇
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沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典に出席した岸信介、片山哲両元首相, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した。同日、政府は東京と那覇で沖縄復帰記念式典を開いた。東京での式典は、千代田区の日本武道館で1万人が参加して開かれ、佐藤栄作首相が式辞を述べ、アグニュー米副大統領がニクソン大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読するなどした。 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典に出席した岸信介、片山哲両元首相=東京都千代田区で1972年(昭和47年)5月15日、接待健一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25ページ掲載の別カット , 日本, 東京都, 日本武道館
日付:1972年5月15日
人物:片山 哲, 岸 信介
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RM 22921946
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄復帰記念式典でバンザイ三唱をする出席者(右の写真)=15日日本武道館で
日付:1972年5月15日
人物:佐藤 栄作
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沖縄返還 沖縄復帰記念式典・決意表明を行う青少年代表, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
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RM 22921950
沖縄・沖縄復帰
雨にけむる銀座では沖縄復帰の電光ニュースが流れる
日付:1972年5月15日
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RM 22921948
沖縄・沖縄復帰 けわしい沖縄県づくり
沖縄県第一日は雨…円・ドルの交換に忙しいのか那覇市国際通りはいつもより人通りが少なかった
日付:1972年5月15日
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沖縄・沖縄復帰 国際通りの“沖縄県”の表示板
返還の日を国際通りの“沖縄県”の表示板が、クッキリと浮きあがった
日付:1972年5月15日
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RM 22921944
沖縄・沖縄復帰 新沖縄県発足式典
新沖縄県発足式典で“沖縄の歌”を披露する高校生合唱団=15日那覇市民会館で
日付:1972年5月15日
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RM 22921943
沖縄・新沖縄県発足
復帰までの日数を示してきた県庁の掲示板も新沖縄県のスタートを知らせた 日本/沖縄県/那覇市 1972年05月15日撮影
日付:1972年5月15日
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沖縄・沖縄復帰 新沖縄県発足
「祝復帰」と書込んだ日の丸をかかげアワモリやハブ酒の大売出し=15日那覇国際通りで
日付:1972年5月15日
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RM 15914014
沖縄本土復帰を報じる毎日新聞朝刊
72年5月15日 沖縄本土復帰 本土復帰を報じる本紙朝刊
日付:1972年5月15日
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RM 26819465
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典で式辞を述べる佐藤栄作首相 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した。同日、政府は東京と那覇で沖縄復帰記念式典を開いた。東京での式典は、千代田区の日本武道館で1万人が参加して開かれ、佐藤栄作首相が式辞を述べ、アグニュー米副大統領がニクソン大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読するなどした。 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典で式辞を述べる佐藤栄作首相。後方右は天皇、皇后両陛下(昭和天皇、香淳皇后)。首相の後方左はアグニュー米副大統領=東京都千代田区で1972年(昭和47年)5月15日、接待健一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25ページ掲載の別カット 日本/東京都/日本武道館 1972年05月15日撮影
日付:1972年5月15日
人物:昭和天皇, 香淳 皇后, 佐藤 栄作
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RM 9228581
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した。同日、政府は東京と那覇で沖縄復帰記念式典を開いた。東京での式典は、千代田区の日本武道館で1万人が参加して開かれ、佐藤栄作首相が式辞を述べ、アグニュー米副大統領がニクソン大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読するなどした。 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典=東京都千代田区で1972年(昭和47年)5月15日、接待健一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25ページ掲載の別カット , 日本, 東京都, 日本武道館
日付:1972年5月15日
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RM 9358503
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 「復帰」の日、商店に掲げられた「日の丸」, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 復帰を祝う民家の日の丸掲揚はほとんど無い。商店街に出された日の丸=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 3頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 6467959
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 沖縄復帰記念式典・万歳三唱をする出席者, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
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RM 9228574
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した。同日、政府は東京と那覇で沖縄復帰記念式典を開いた。東京での式典は、千代田区の日本武道館で1万人が参加して開かれ、佐藤栄作首相が式辞を述べ、アグニュー米副大統領がニクソン大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読するなどした。 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典=東京都千代田区で1972年(昭和47年)5月15日、接待健一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25ページ掲載の別カット , 日本, 東京都, 日本武道館
日付:1972年5月15日
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RM 26819464
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
回顧’72 沖縄返還 日本武道館で行なわれた「沖縄返還式典」。着席する天皇、皇后両陛下(昭和天皇、香淳皇后) 沖縄は1972年(昭和47年)5月15日、午前零時、27年ぶりに祖国に復帰した。東京・千代田区の日本武道館で行なわれた「沖縄返還式典」には天皇、皇后両陛下(昭和天皇、香淳皇后)が出席。天皇陛下がお言葉を述べた。いっぽう沖縄の「復帰記念式典」は那覇市民会館で行なわれ、東京会場から佐藤栄作首相の式辞、そして天皇陛下のお言葉が流れた。 「沖縄返還記念式典」(東京会場)に臨む天皇、皇后両陛下(昭和天皇、香淳皇后)=東京都千代田区の日本武道館で1972年(昭和47年)5月15日、出版写真部員撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25頁のカット 日本/東京都/千代田区・日本武道館 1972年05月15日撮影
日付:1972年5月15日
人物:昭和天皇, 香淳 皇后
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沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
「崩御昭和天皇」 日本武道館の沖縄祖国復帰式典に参列された天皇陛下 昭和天皇崩御。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸がんのため、皇居・吹上御所で。天皇陛下は、太平洋戦争後の米国統治が長引く沖縄について気にかけておられた。1972年(昭和47年)5月15日、東京・日本武道館で行われた沖縄の復帰式典にご参列された=接待健一写す 毎日グラフ1989年(平成元年)1月21日緊急増刊号「崩御昭和天皇」46頁に掲載とは別カット 日本/東京都/日本武道館 1972年05月15日撮影
日付:1972年5月15日
人物:昭和天皇, 香淳 皇后
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RM 26819462
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
「崩御昭和天皇」 日本武道館の沖縄祖国復帰式典に参列された天皇陛下と皇后陛下 昭和天皇崩御。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸がんのため、皇居・吹上御所で。天皇陛下は、太平洋戦争後の米国統治が長引く沖縄について気にかけておられた。1972年(昭和47年)5月15日、東京・日本武道館で行われた沖縄の復帰式典に、皇后陛下と一緒にご参列された=接待健一写す 毎日グラフ1989年(平成元年)1月21日緊急増刊号「崩御昭和天皇」46頁に掲載とは別カット 日本/東京都/日本武道館 1972年05月15日撮影
日付:1972年5月15日
人物:昭和天皇, 香淳 皇后
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RM 26819461
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
「崩御昭和天皇」 日本武道館の沖縄祖国復帰式典に参加された天皇皇后両陛下 昭和天皇崩御。1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸がんのため、皇居・吹上御所で。天皇陛下は、太平洋戦争後の米国統治が長引く沖縄について気にかけておられた。1972年(昭和47年)5月15日、東京・日本武道館で行われた沖縄の復帰式典でお言葉を読み上げる天皇陛下。右は、皇后陛下=接待健一写す 毎日グラフ1989年(平成元年)1月21日緊急増刊号「崩御昭和天皇」46頁に掲載とは別カット 日本/東京都/日本武道館 1972年05月15日撮影
日付:1972年5月15日
人物:昭和天皇, 香淳 皇后
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沖縄返還 (1972年5月15日)
模型の守札之門をくぐる沖縄第1便の乗客たち。沖縄返還。
日付:1972年5月15日
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沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 祖国復帰協が「沖縄処分抗議」「自衛隊配備反対」など掲げ5.15集会。雨の中、デモに出発, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄は27年ぶりに祖国に復帰し、新生「沖縄県」として第一歩を踏み出した。政府は同日、東京と沖縄で沖縄復帰記念式典を開いた。一方、沖縄県祖国復帰協主催の「自衛隊配備反対・軍用地契約拒否・沖縄処分抗議・佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」が同日、那覇市の与儀公園で開かれ、雨の中労働組合、民主団体、学生らおよそ5000人が参加した。▽日米共同声明路線に基づく沖縄処分抗議▽自衛隊配備反対▽米のベトナム侵略戦争抗議――などの決議を採択し、県庁前までデモ行進した。 雨にぬかるむ与儀公園での集会を終え、デモに出発する集会参加者たち=沖縄県那覇市の与儀公園で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年6月4日号 表紙掲載の別カット , 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9463056
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 祖国復帰協が「沖縄処分抗議」「自衛隊配備反対」掲げ5.15集会。那覇市内をデモ行進する全軍労, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄は27年ぶりに祖国に復帰し、新生「沖縄県」として第一歩を踏み出した。政府は同日、東京と沖縄で沖縄復帰記念式典を開いた。一方、沖縄県祖国復帰協主催の「自衛隊配備反対・軍用地契約拒否・沖縄処分抗議・佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」が同日、那覇市の与儀公園で開かれ、雨の中労働組合、民主団体、学生らおよそ5000人が参加した。▽日米共同声明路線に基づく沖縄処分抗議▽自衛隊配備反対▽米のベトナム侵略戦争抗議――などの決議を採択し、県庁前までデモ行進した。 県民総決起大会終了後、国際通りをデモ行進する全軍労(全沖縄軍労働組合)の組合員=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年6月4日号 表紙掲載の別カット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9463038
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 祖国復帰協が「沖縄処分抗議」「自衛隊配備反対」など掲げ5.15集会。雨の中、デモに出発, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄は27年ぶりに祖国に復帰し、新生「沖縄県」として第一歩を踏み出した。政府は同日、東京と沖縄で沖縄復帰記念式典を開いた。一方、沖縄県祖国復帰協主催の「自衛隊配備反対・軍用地契約拒否・沖縄処分抗議・佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」が同日、那覇市の与儀公園で開かれ、雨の中労働組合、民主団体、学生らおよそ5000人が参加した。▽日米共同声明路線に基づく沖縄処分抗議▽自衛隊配備反対▽米のベトナム侵略戦争抗議――などの決議を採択し、県庁前までデモ行進した。 雨にぬかるむ与儀公園での集会を終え、デモに出発する集会参加者たち=沖縄県那覇市の与儀公園で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年6月4日号 表紙掲載の別カット , 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9463037
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 祖国復帰協が「沖縄処分抗議」「自衛隊配備反対」など掲げ5.15集会。雨の中、デモに出発, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄は27年ぶりに祖国に復帰し、新生「沖縄県」として第一歩を踏み出した。政府は同日、東京と沖縄で沖縄復帰記念式典を開いた。一方、沖縄県祖国復帰協主催の「自衛隊配備反対・軍用地契約拒否・沖縄処分抗議・佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」が同日、那覇市の与儀公園で開かれ、雨の中労働組合、民主団体、学生らおよそ5000人が参加した。▽日米共同声明路線に基づく沖縄処分抗議▽自衛隊配備反対▽米のベトナム侵略戦争抗議――などの決議を採択し、県庁前までデモ行進した。 雨にぬかるむ与儀公園での集会を終え、デモに出発する集会参加者たち=沖縄県那覇市の与儀公園で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年6月4日号 表紙掲載の別カット , 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9358628
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た屋慶名港と平安座島を結ぶ海中道路, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 世界のガルフ・オイル社が7割以上の土地を独占する平安座島は勝連半島の屋慶名港と4キロの海中道路で結ばれている。島の海岸線には同社の巨大な石油タンク群が並んでいる。上空から見た海中道路。上方は平安座島=沖縄県与那城町(後のうるま市)で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 26頁のカット, 日本, 沖縄県, 与那城町(後のうるま市)
日付:1972年5月15日
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RM 9358625
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た平安座島のガルフ・オイル社のタンク群, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 世界のガルフ・オイル社が7割以上の土地を独占する平安座島は勝連半島の屋慶名港と4キロの海中道路で結ばれている。島の海岸線には同社の巨大な石油タンク群が並んでいる=沖縄県与那城町(後のうるま市)の平安座島で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 26頁のカット, 日本, 沖縄県, 平安座島
日付:1972年5月15日
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RM 9358623
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た海兵隊の航空機訓練場の普天間基地, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見た海兵隊の航空機訓練場の普天間基地。基地の面積4.830キロ平方メートルで、宜野湾市の約25パーセントを占める。返還後も再提供された=沖縄県宜野湾市で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 1972年05月15日撮影
日付:1972年5月15日
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RM 9358618
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た第七艦隊などの軍事物資補給拠点、ホワイト・ビーチ, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見たホワイト・ビーチの港湾施設。アメリカ第7艦隊などの軍事物資の補給をする重要な港。広大な敷地の中には、宿舎、事務所、貯油施設、ミサイル・サイトなどがあり、米軍重要基地の一つ=沖縄県勝連町(後のうるま市)で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 25頁のカット, 日本, 沖縄県, 勝連町
日付:1972年5月15日
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RM 9358606
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 復帰記念式典那覇会場で警戒にあたる機動隊, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 復帰記念式典那覇会場となった那覇市民会館前で警戒にあたる機動隊。隣の与儀公園では沖縄復帰協主催の「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5.15県民総決起集会」が開かれた=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 9頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9358601
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 返還された那覇空港に掲揚された日の丸と星条旗, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。正面には「日の丸」が掲げられ、栗山総務副長官の開会のことばで午前10時半開式。「君が代」斉唱のあと、東京会場から佐藤栄作首相の式辞、そして天皇陛下のおことばが流れた。政府を代表して山中総務長官の挨拶、つづいて屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 返還された那覇空港に掲揚された日の丸と星条旗=沖縄県那覇市の那覇空港で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 8頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9358585
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 日の丸が掲げられた沖縄復帰の記念式典, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。正面には「日の丸」が掲げられ、栗山総務副長官の開会のことばで午前10時半開式。「君が代」斉唱のあと、東京会場から佐藤栄作首相の式辞、そして天皇陛下のおことばが流れた。政府を代表して山中総務長官の挨拶、つづいて屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 日の丸が掲げられた沖縄復帰の記念式典=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 8頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9358578
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 「復帰」の日、店内の天井に下げられた「日の丸」, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 復帰を祝う民家の日の丸掲揚はほとんど無い。店内に掲げられた日の丸=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 7頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9358554
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 那覇市内に掲揚された日の丸, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 復帰を祝う民家の日の丸掲揚はほとんど無いが、本土の観光客相手の国際通りの商店街では日の丸のオンパレード。市内に掲揚された日の丸=沖縄県那覇市内で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 6頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9358547
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 日の丸と自衛隊歓迎の看板の下に、万歳をする子供たちのポスターが掲示されている那覇市内, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 復帰を祝う民家の日の丸掲揚はほとんど無いが、本土の観光客相手の国際通りの商店街では日の丸のオンパレード。日の丸と自衛隊歓迎の看板の下に、万歳をする子供たちのポスターが掲示されている那覇市内=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 6頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9358527
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 「復帰」の日、商店に並べられた「日の丸」の小旗, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 復帰を祝う民家の日の丸掲揚はほとんど無い。商店に並べられた「日の丸」の小旗=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 6頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9340014
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た那覇軍港。上陸用舟艇や軍用車両が並ぶ, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見た那覇軍港。上陸用舟艇や軍用車両が並ぶ=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 20頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9340009
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見たコザ市全景、上方に嘉手納基地が見える, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見たコザ市全景、上方に嘉手納基地が見える=沖縄県コザ市(後の沖縄市)で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 19頁のカット, 日本, 沖縄県, コザ市(後の沖縄市)
日付:1972年5月15日
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RM 9339996
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た知花弾薬庫, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見た嘉手納基地に隣接する知花弾薬庫、緑の中に屈曲した道路が走る。米軍の重要基地は復帰後も、そのまま居すわっている。面積は復帰前の345平方キロ(全島の14.4パーセント)から286.6平方キロ(同12パーセント)に縮小されただけ=沖縄県美里村(後の沖縄市)で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 24頁のカット, 日本, 沖縄県, 美里村(後の沖縄市)
日付:1972年5月15日
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RM 9339975
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た辺野古弾薬庫, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見た野辺古弾薬庫。米軍の重要基地は復帰後も、そのまま居すわっている。面積は復帰前の345平方キロ(全島の14.4パーセント)から286.6平方キロ(同12パーセント)に縮小されただけ=沖縄県名護市で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 24頁のカット, 日本, 沖縄県, 名護市
日付:1972年5月15日
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RM 9339974
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た復帰の日の那覇市全景, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見た復帰の日の那覇市全景=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 22頁・23頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9339972
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た那覇市近郊にある米第2兵たん部, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見た那覇市近郊にある米第2兵たん部。ここは極東米軍最大といわれる物資補給基地である=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 20頁・21頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9339969
沖縄返還 (1972年5月15日)
基地の中の沖縄 返還後、本社機が沖縄の空を飛んだ。上空から見た那覇市。市の中央部に広がる広大な米軍施設, 復帰前は自由に飛ぶことができなかった沖縄の空、1972年(昭和47年)5月15日からは日本の空である沖縄本島上空を毎日新聞社機は飛んだ。しかし基地付きで返還された島は、きびしい取材制限のため、やはり厚いベールに包まれていた。 上空から見た那覇市。市の中央部に広がる広大な米軍施設=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月15日、本社機から江口宏一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 20頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月15日
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RM 9228632
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典に臨む佐藤栄作首相、福田赳夫外相、竹下登官房長官ら, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した。同日、政府は東京と那覇で沖縄復帰記念式典を開いた。東京での式典は、千代田区の日本武道館で1万人が参加して開かれ、佐藤栄作首相が式辞を述べ、アグニュー米副大統領がニクソン大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読するなどした。 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典に臨む佐藤栄作首相、福田赳夫外相、竹下登官房長官ら=東京都千代田区で1972年(昭和47年)5月15日、接待健一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25ページ掲載の別カット , 日本, 東京都, 日本武道館
日付:1972年5月15日
人物:竹下 登, 福田 赳夫, 佐藤 栄作
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RM 9228629
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典に臨む佐藤栄作首相、福田赳夫外相、竹下登官房長官ら, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した。同日、政府は東京と那覇で沖縄復帰記念式典を開いた。東京での式典は、千代田区の日本武道館で1万人が参加して開かれ、佐藤栄作首相が式辞を述べ、アグニュー米副大統領がニクソン大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読するなどした。 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典に臨む佐藤栄作首相、福田赳夫外相、竹下登官房長官ら=東京都千代田区で1972年(昭和47年)5月15日、接待健一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25ページ掲載の別カット , 日本, 東京都, 日本武道館
日付:1972年5月15日
人物:竹下 登, 福田 赳夫, 佐藤 栄作
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RM 9228608
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 東京で行われた沖縄復帰記念式典でニクソン米大統領の「宣言」を代読したアグニュー副大統領, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した。同日、政府は東京と那覇で沖縄復帰記念式典を開いた。東京での式典は、千代田区の日本武道館で1万人が参加して開かれ、佐藤栄作首相が式辞を述べ、アグニュー米副大統領がニクソン大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読するなどした。 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典で、ニクソン米大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読、祝辞を述べた後、「宣言」を佐藤栄作首相(手前)に手渡すアグニュー米副大統領=東京都千代田区で1972年(昭和47年)5月15日、接待健一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25ページ掲載の別カット , 日本, 東京都, 日本武道館
日付:1972年5月15日
人物:佐藤 栄作
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RM 9228603
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典で式辞を述べる佐藤栄作首相, 1972年(昭和47年)5月15日午前零時、沖縄が27年ぶりに祖国に復帰した。同日、政府は東京と那覇で沖縄復帰記念式典を開いた。東京での式典は、千代田区の日本武道館で1万人が参加して開かれ、佐藤栄作首相が式辞を述べ、アグニュー米副大統領がニクソン大統領の「米国の沖縄民政を終結させる宣言」を代読するなどした。 東京・日本武道館で行われた沖縄復帰記念式典で式辞を述べる佐藤栄作首相。首相の左後方はアグニュー米副大統領=東京都千代田区で1972年(昭和47年)5月15日、接待健一撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)12月31日号 25ページ掲載の別カット, 日本, 東京都, 日本武道館
日付:1972年5月15日
人物:佐藤 栄作
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RM 6557403
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還・東京 那覇線1便が羽田を出発, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
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RM 6467978
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 27年ぶりに祖国復帰・沖縄県第1日の那覇市国際通り, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
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RM 6467975
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 27年ぶりに祖国復帰・那覇市には「自衛隊配備反対」の大看板, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
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RM 6467974
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 27年ぶりに祖国復帰・「沖縄県庁」の表札除幕式, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
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RM 6467973
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 沖縄復帰記念式典・お言葉を述べる天皇陛下, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
人物:昭和天皇
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RM 6467961
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄返還 沖縄復帰記念式典・決意表明を行う沖縄県代表, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
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RM 6467958
沖縄返還 (1972年5月15日)
沖縄返還 27年ぶりに祖国復帰・15日午前零時、復帰の瞬間を告げる大時計, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
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RM 6498605
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
佐藤栄作 総理大臣 沖縄復帰式典で上機嫌, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
人物:佐藤 栄作
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RM 6498604
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
佐藤栄作 総理大臣 沖縄復帰式典で米大統領宣言を受け取る, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
人物:佐藤 栄作
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RM 6498603
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
佐藤栄作 総理大臣 沖縄復帰式典で涙, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月15日
人物:佐藤 栄作
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RM 6600914
沖縄復帰記念式典 (1972年5月15日)
沖縄復帰記念式典 沖縄が27年ぶりで祖国に復帰・記念式典で長い間の苦労をねぎらわれた 東京都/千代田区の日本武道館で 1972年05月15日撮影
日付:1972年5月15日
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RM 13340225
沖縄本土復帰 雨の中、日の丸の旗を売る人(那覇市で)
沖縄本土復帰 雨の中、日の丸の旗を売る人。(那覇市1972年5月15日)
日付:1972年5月15日
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RM 22921925
沖縄那覇市・沖縄復帰 復帰報告慰霊祭
14日、那覇で開かれた中央慰霊祭で復帰報告をする屋良主席=14日識名中央納骨所で
日付:1972年5月14日
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RM 22921923
沖縄那覇市・沖縄復帰 復帰報告慰霊祭
豪雨の中で感慨無量の表情で慰霊祭の式典を見守る老人たち=14日識名中央納骨所で
日付:1972年5月14日
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RM 13340284
沖縄本土復帰 近代化を象徴する沖縄・西原町の琉球大学
沖縄本土復帰 近代化を象徴する沖縄・西原町の琉球大学。(本社機から1972年5月撮影)14日朝刊掲載
日付:1972年5月14日
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RM 9358522
沖縄返還 (1972年5月14日)
沖縄返還 復帰前日に開かれた「復帰祝賀県民大会」。中央の演壇には日の丸が掲げられたが、閑散としていた, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 復帰前日に開かれた「復帰祝賀県民大会」。中央の演壇には日の丸が掲げられたが、閑散としていた。参加者に配られる日の丸の小旗も、紅白のまんじゅうも大量に残ってしまった=沖縄県那覇市内で1972年(昭和47年)5月14日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)6月4日号 4頁・5頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月14日
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RM 9340775
沖縄返還 (1972年5月14日)
沖縄返還 復帰前日に開かれた「復帰祝賀県民大会」で復帰を祝い、踊る式典参加者, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。正面には「日の丸」が掲げられ、栗山総務副長官の開会のことばで午前10時半開式。「君が代」斉唱のあと、東京会場から佐藤栄作首相の式辞、そして天皇陛下のおことばが流れた。政府を代表して山中総務長官の挨拶、つづいて屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 復帰前日に開かれた「復帰祝賀県民大会」で復帰を祝い、踊る式典参加者=沖縄県那覇市の光明会館で1972年(昭和47年)5月14日、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)5月28日号 98頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月14日
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RM 6467976
沖縄返還 (1972年5月14日)
沖縄返還 最後のドル建てサヨナラ・セール, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月14日
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RM 22921936
沖縄・沖縄復帰 琉球政府の閉庁式
琉球政府の閉庁式
日付:1972年5月13日
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RM 22921928
沖縄返還 (1972年5月13日)
沖縄那覇市・沖縄復帰 買い込みの主婦たちでごった返す市場 日本/沖縄県/那覇市 1972年05月13日撮影
日付:1972年5月13日
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RM 13340193
沖縄本土復帰 復帰後も返還されない米軍嘉手納基地の飛行場、弾薬庫、米軍住宅
沖縄本土復帰 復帰後も返還されない米軍嘉手納基地の飛行場、弾薬庫、米軍住宅。(本社機から1972年5月13日)読売報道写真集掲載
日付:1972年5月13日
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RM 6467962
沖縄返還 (1972年5月13日)
沖縄返還 琉球政府閉庁式・あいさつする屋良朝苗主席, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月13日
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RM 22878139
沖縄・沖縄基地復帰後の不安まざまざ
米海兵隊の動きがあわただしい沖縄・金武村のマリン・ピア=10日写す
日付:1972年5月10日
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RM 22921921
沖縄・最後の復帰準備委
最後の復帰準備委本会議のあとそろって会見するランパート米弁務官、高瀬大使、屋良琉球政府主席=4日特派員写す
日付:1972年5月4日
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RM 22921920
沖縄・最後の復帰準備委
最後の復帰準備委本会議のあとの会見(左からランパート米弁務官、高瀬大使、一人おいて、屋良琉球政府主席)=4日特派員写す
日付:1972年5月4日
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RM 115518947
沖縄返還 首里城公園(1972年5月)
円鏡池にある弁天堂で釣りを楽しむ市民=那覇・首里城公園で1972年5月撮影
日付:1972年5月1日
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RM 115518946
沖縄返還 首里城公園(1972年5月)
円鏡池弁天堂で釣りを楽しむ市民=那覇・首里城公園で1972年5月撮影
日付:1972年5月1日
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RM 168941694
沖縄返還 観光と基地の谷間で模索する沖縄。琉球の伝統衣装「琉装」の女性
1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、相も変わらず返還後も嘉手納基地から米軍機が飛び立っている。「基地の島から観光の島へ」、復帰後の沖縄を憂い模索する姿がそこにある。 琉球文化を色濃く残す沖縄の伝統衣装「琉装」の女性=沖縄県で、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)5月28日号 3頁のカット
日付:1972年5月1日
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RM 29389511
沖縄返還 車のラッシュ 観光、建設ブームで1号線も車のラッシュ=那覇市旭町で1972年5月撮影 日本/沖縄県/那覇市旭町
日付:1972年5月1日
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RM 23387957
沖縄返還 観光戦跡
軍司令官牛島満中将と長勇参謀長を祀る黎明の塔を案内するガイド=糸満市摩文仁の沖縄平和祈念公園で、1972年05月撮影
日付:1972年5月1日
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RM 13135389
沖縄返還 (撮影日不明)
本土復帰の直前の石垣島で水牛に乗った少年。4月21日撮影。5月14日14版掲載。沖縄返還。
日付:1972年5月1日
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RM 13135386
沖縄返還 (撮影日不明)
本土復帰直前の石垣島のパイン畑。4月21日撮影。5月14日14版掲載。沖縄返還。
日付:1972年5月1日
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RM 9515075
沖縄返還 (1972年5月)
帰ってこない沖縄 返還後の沖縄に居座る米軍施設。那覇市近郊にある米第2兵たん部, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄が本土に復帰した。しかし、返還された沖縄の中に、帰ってこない沖縄がある。それは沖縄本島の実に20パーセントを超える広大な米軍基地である。基地機能の維持をうたった佐藤首相ニクソン米大統領との日米共同声明が、全面復帰を要求する沖縄県民の声を押しつぶした。 那覇市近郊にある米第2兵たん部。ここは極東米軍最大といわれる物資補給基地で、ベトナム戦線と直結している=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月、本社ヘリから江口宏一撮影 サンデー毎日1972年(昭和47年)6月4日号 12頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月1日
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RM 9515070
沖縄返還 (1972年5月)
帰ってこない沖縄 返還後の沖縄に居座る米軍施設。東シナ海および極東一帯の電波を傍受する米軍の巨大アンテナ, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄が本土に復帰した。しかし、返還された沖縄の中に、帰ってこない沖縄がある。それは沖縄本島の実に20パーセントを超える広大な米軍基地である。基地機能の維持をうたった佐藤首相ニクソン米大統領との日米共同声明が、全面復帰を要求する沖縄県民の声を押しつぶした。 東シナ海および極東一帯の電波を傍受する米軍の巨大アンテナ=沖縄県読谷村で1972年(昭和47年)5月、本社ヘリから江口宏一撮影 サンデー毎日1972年(昭和47年)6月4日号 10頁・11頁のカット, 日本, 沖縄県, 読谷村
日付:1972年5月1日
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RM 9515063
沖縄返還 (1972年5月)
帰ってこない沖縄 返還後の沖縄に居座る米軍施設。各種艦艇の出入りが激しい那覇軍港。埠頭に並ぶ戦闘車両, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄が本土に復帰した。しかし、返還された沖縄の中に、帰ってこない沖縄がある。それは沖縄本島の実に20パーセントを超える広大な米軍基地である。基地機能の維持をうたった佐藤首相ニクソン米大統領との日米共同声明が、全面復帰を要求する沖縄県民の声を押しつぶした。 返還後の沖縄に居座る米軍施設。各種艦艇の出入りが激しい那覇軍港。埠頭に並ぶ戦闘車両やLST(揚陸艦艇)=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月、本社ヘリから江口宏一撮影 サンデー毎日1972年(昭和47年)6月4日号 10頁・11頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月1日
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RM 9515058
沖縄返還 (1972年5月)
帰ってこない沖縄 返還後の沖縄に居座る米軍施設。那覇市の広大な敷地の米軍住宅地区, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄が本土に復帰した。しかし、返還された沖縄の中に、帰ってこない沖縄がある。それは沖縄本島の実に20パーセントを超える広大な米軍基地である。基地機能の維持をうたった佐藤首相ニクソン米大統領との日米共同声明が、全面復帰を要求する沖縄県民の声を押しつぶした。 返還後の沖縄に居座る米軍施設。那覇市の広大な敷地の米軍住宅地区=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月、本社ヘリから江口宏一撮影 サンデー毎日1972年(昭和47年)6月4日号 8頁・9頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月1日
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RM 9515053
沖縄返還 (1972年5月)
帰ってこない沖縄 返還後の沖縄に居座る米軍施設。毒ガス事故発生や核貯蔵疑惑で揺れる知花弾薬庫, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄が本土に復帰した。しかし、返還された沖縄の中に、帰ってこない沖縄がある。それは沖縄本島の実に20パーセントを超える広大な米軍基地である。基地機能の維持をうたった佐藤首相ニクソン米大統領との日米共同声明が、全面復帰を要求する沖縄県民の声を押しつぶした。 返還後の沖縄に居座る米軍施設。1969年(昭和44年)7月に発生した毒ガス事故や核貯蔵疑惑で揺れる知花弾薬庫=沖縄県の知花弾薬庫で1972年(昭和47年)5月、本社ヘリから江口宏一撮影 サンデー毎日1972年(昭和47年)6月4日号 7頁のカット, 日本, 沖縄県, 知花弾薬庫
日付:1972年5月1日
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RM 9339781
沖縄返還 (1972年5月)
沖縄返還 観光と基地の谷間で模索する沖縄。沖縄の風俗、民家の屋根に飾られている大きな唐獅子, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。 沖縄には本土にないさまざまな風俗、風習がある。民家の屋根に飾られている大きな唐獅子=沖縄県那覇市で1972年(昭和47年)5月、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)5月28日号 10頁のカット, 日本, 沖縄県, 那覇市
日付:1972年5月1日
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RM 9339773
沖縄返還 (1972年5月)
沖縄返還 観光と基地の谷間で模索する沖縄。戦争で流された血を思い出させるような赤い岩肌の辺土岬, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。太平洋戦争で流された血を思い出させるような赤い岩肌を見せる辺土岬のガケ=沖縄県国頭郡国頭村で1972年(昭和47年)5月、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)5月28日号 9頁のカット, 日本, 沖縄県, 国頭村・辺土岬
日付:1972年5月1日
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RM 9339684
沖縄返還 (1972年5月)
沖縄返還 観光と基地の谷間で模索する沖縄。米軍嘉手納基地から飛び立つ米軍輸送機C5Aギャラクシー, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。 本土復帰で沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、嘉手納基地から、相も変わらず米軍機が爆音を轟かせながら飛び立っている。離陸する米軍輸送機C5Aギャラクシー=沖縄県の米軍嘉手納基地で1972年(昭和47年)5月、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)5月28日号 6頁・7頁のカット, 日本, 沖縄県,
日付:1972年5月1日
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RM 9339674
沖縄返還 (1972年5月)
沖縄返還 観光と基地の谷間で模索する沖縄。沖縄本島北部地区に広がるパイナップル畑, 1972年(昭和47年)5月15日、沖縄「復帰記念式典」が那覇市民会館で開かれた。式典で屋良朝苗沖縄県知事が「復帰の内容は必ずしも県民の切なる願望が入れられたとは言えない」と批判しながらも「感無量、復帰はまさしく沖縄という「新しい永遠の生命の誕生である。平和で明るい、豊かな県づくりにまい進したい」と決意を述べた。沖縄県民だれもが基地の完全撤去を望んだが、返還後も嘉手納基地から米軍機が飛び立っている。「基地の島から観光の島へ」模索する沖縄の姿がそこにある。 沖縄本島北部地区に広がるパイナップル畑。サトウキビと並んで沖縄の特産品である=沖縄県で、大須賀興屹撮影 毎日グラフ1972年(昭和47年)5月28日号 4頁・5頁のカット, 日本, 沖縄県,
日付:1972年5月1日
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RM 6467960
沖縄返還 (1972年5月)
沖縄返還 ドル電話と円電話(上)が並ぶ公衆電話, (Photo by Mainichi Newspaper/AFLO) [2400]
日付:1972年5月1日
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RM 13338250
沖縄本土復帰 水牛とコイノボリ(石垣島)
沖縄本土復帰 水牛(中央)とコイノボリ(奥)。(石垣島で1972年4月)
日付:1972年4月30日
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RM 13338243
沖縄本土復帰 竹富島の踊り
沖縄本土復帰 竹富島の踊り。(1972年4月)
日付:1972年4月30日
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RM 13338238
沖縄本土復帰 竹富島の石垣と家並み
沖縄本土復帰 竹富島の石垣と家並み。(1972年4月)
日付:1972年4月30日
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RM 13338234
沖縄本土復帰 八重上布の天日干し(竹富島)
沖縄本土復帰 八重上布の天日干し。(竹富島で1972年4月)
日付:1972年4月30日
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RM 13338252
沖縄本土復帰 パインの収穫(石垣島)
沖縄本土復帰 パイナップルの収穫。(石垣島で1972年4月)
日付:1972年4月30日
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